刑法授業補充ブログ

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2015年 04月 07日

【第1講】刑法の意義・刑罰論

【授業内容】(基本的にコアカリキュラムに沿って授業を行うが,一部順番を入れ替え,追加項目もあり、いくつかの項目は時間外学習にまわした。
第1章 刑法の基礎理論
第1節 総説
【教科書】山口厚『刑法』(第3版・2011年)
【参考文献】佐伯仁志「刑法の基礎理論」同・刑法総論の考え方・楽しみ方(2013年)1-15頁
西田典之・山口厚・佐伯仁志『判例刑法総論』(第6版・2013年)
【レジュメ】
1.刑法の意義(追加項目) (山口3以下)
◎刑法の意義を理解し、その概要を説明することができる。
(1)形式的意味/実質的意味の刑法
・形式的意味の刑法(「刑法」明治四十年四月二十四日法律第四十五号
・実質的意味の刑法
「犯罪と刑罰の法」=「いかなる行為が犯罪であり、それに対するいかなる刑罰が科されるかを規定した法(山口3)
(2)特別刑法
・刑法
・特別刑法
 ・狭義の特別刑法
 ・広義の特別刑法
【条文】刑法8条(他の法令の罪に対する適用:「この編の規定は、他の法令の罪についても、適用する。ただし、その法令に特別の規定があるときは、この限りでない。」)
(3)刑法と他の法との関係
*民法/行政法との違い
*刑事訴訟法との関係
・実体法ー>(実体)刑法
・手続法ー>刑事訴訟法(刑事手続法)

2. 刑罰論
(1)刑罰の目的(山口4)
1-1-1 刑罰の目的に関する主要な見解を理解し、その概要を説明することができる。
 ・応報刑論
 ・予防刑論
  ・一般予防論
   *消極的一般予防論
   *積極的一般予防論
  ・特別予防論

*目的刑論の意義
**積極的一般予防論の意義(高橋則夫・刑法総論2版12-3頁参照)
***被害者保護論
被害者保護論は上記刑罰論とどのような関係に立つのか?
被害者(の遺族)の応報感情の沈静化は(国家)刑罰目的として相応しいものか?
復讐と応報は同じものか?
なぜ現在では刑罰権は国家に独占されているのか?
*国家制度としての刑罰制度の正当化(一般予防論)/個人処罰の正当化(応報刑論)の区別説(H.L.A.Hart/佐伯5-6頁)は妥当か?
(2)刑罰の種類と内容(山口196以下)
1-1-2 刑の種類・内容を理解し、その概要を説明することができる。
【条文】刑法9条(刑の種類:「死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。」)、10条(刑の軽重:「①主刑の軽重は、前条に規定する順序による。ただし、無期の禁錮と有期の懲役とでは禁錮を重い刑とし、有期の禁錮の長期が有期の懲役の長期の二倍を超えるときも、禁錮を重い刑とする。/②同種の刑は、長期の長いもの又は多額の多いものを重い刑とし、長期又は多額が同じであるときは、短期の長いもの又は寡額の多いものを重い刑とする。/③二個以上の死刑又は長期若しくは多額及び短期若しくは寡額が同じである同種の刑は、犯情によってその軽重を定める。」)、憲法36条(「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」)
ア.生命刑 「死刑」
*死刑の合憲性
絞首刑(刑法11条1項)は刑罰の残虐な執行方法ではないのか?
【判例】死刑合憲判決(最判昭和23年3月12日刑集第2巻3号191頁Wiki
(芦部247)
イ.身体刑(鞭打ちの刑など)→違憲 (通説)
ウ.自由刑 「懲役、禁錮、拘留」
エ.財産刑「罰金、科料、没収」
*没収は刑罰か,保安処分か?
*刑罰と換刑処分(参考判例:判例刑法6)
短答問題(1)(2)072.gif
*****
【時間外学習項目】
(3) 法定刑・処断刑・宣告刑(山口198)
1-1-3 法定刑、処断刑、宣告刑の意義を理解し、その概要を説明することができる。 *量刑基準
(4)刑の執行猶予(山口198)
1-1-4 刑の執行猶予の趣旨及び要件を理解し、その概要を説明することができる。
072.gif刑の一部の執行猶予改正(新旧対照表)が成立
参考論文
懲役・禁固刑に「一部執行猶予」 改正刑法が成立 072.gif
日経新聞2013/6/13 11:14 (2013/6/13 13:13更新)
 
懲役や禁錮刑の一部を執行した後に残りの刑期を猶予する「一部執行猶予制度」の創設を盛り込んだ改正刑法などが13日午後の衆院本会議で全会一致で可決、成立した。一部執行猶予は実刑と執行猶予の中間的な刑罰で、薬物使用などの罪を対象とする。猶予期間に円滑な社会復帰につながる準備をさせ、再犯防止を目指す。
 新制度は、3年以下の懲役・禁錮の判決の中で、裁判所が判断し、刑の一部の執行を1年から5年の範囲で猶予する。「懲役2年、うち6カ月を2年間の執行猶予」とする場合、刑務所を1年半で出所した後、2年間再び罪を犯さなければ刑務所に収容されることはない。
 比較的罪の軽い初犯者や、薬物犯罪などが対象で、猶予期間は保護観察を受ける仕組み。保護観察中は、保護観察所が対象者に「特別順守事項」として公共施設の清掃や福祉施設での介護補助などの社会貢献活動をするよう義務付ける。再び罪を犯したり、順守事項を守らなかったりした場合は執行猶予が取り消される。
 再犯率の高い薬物依存者をいち早く社会に出して立ち直りを支援するのが狙いだが、医療機関などの「受け皿」が少ないなど課題も多い。効果的な施策になるかどうかは、政府の態勢整備にかかっている。
 刑法改正案は2011年に国会に提出され、継続審議となっていたが、昨年の衆院解散に伴い、廃案となった。政府は今国会に法案を再提出し、参院で先に審議して5日の参院本会議で可決していた。

(5)仮釈放・仮出場(山口197)
1-1-5 仮釈放の趣旨及び要件を理解し、その概要を説明することができる

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(1)カント
*同害報復(タリオ)の法(ius talionis)・島の事例
裁判による刑罰(poena forensis)は自然によるもの[天罰](poena naturalis)とは区別される。自然による刑罰は、犯罪そのものが自らを罰するのであって、立法者が考慮するわけではまったくない。裁判による刑罰は、犯罪者自身にとって、あるいは市民社会にとって、別の善を促進する手段にすぎないということはけっしてありえず、つねにもっぱらその人が犯罪を犯したがゆえにその人に課されるのでなければならない。というのも、人間が他の人の意図のための手段としてのみ扱われること、物権の対象と一緒にされることはできないのであり、市民的人格であることを剥奪する判決が下されても、生得的人格であることが、そうした扱いからその人を守るからである。処罰すべしという認定が、犯罪者自身あるいは同朋市民にその刑罰によってもたらされる利益について考えることに、先行しなくてはならない。刑罰の法則は定言命法である。幸福論の曲がりくねった道を廻い回り、見込まれる利益ゆえに刑罰を免除する、あるいは一段階だけ軽減するなんらかの理由を見いだそうとする人々、つまり「全人民が減びるより、一人の人が死ぬ方がよい」というパリサイ人の標語に従う人々に災いあれ。というのも、正義が滅びるなら、人間が地上に生きることに、もはやなんの価値もないからである。―そこで、次のような提案をどのように受け止めるぺきだろうか。それはすなわち、死刑を宣告された犯罪者が、危険な実験の被験者になることを承諾するなら、そして実験が幸運にも成功し、それによって医師には新しい知見が、公共体には有益な知見がもたらされるなら、その生命を助けようという提案である。法廷は、そのような提案をする医師団を軽蔑して退けるだろう。というのも正義は、いずれかの代価と引き替えに自らを売り渡すなら、正義ではなくなってしまうからである。
 下される刑罰の種類と程度を決めるために、公的正義が原理と基準にするものは何か。それは、(正義の秤の針が示す)一方の側にも他方の側にも傾くことのない相等性〔平等〕という原理に他ならない。したがって、それがどのようなものであれ、いわれのない危害を人民に属する他の人に加えるなら、それはあなた自身に加えることになる。他の人を侮辱すれば、自分自身を侮辱することになり、他の人から盗めば、自分から盗むことになり、他の人を殴れば、自分を殴ることになり、他の人を殺せば、自分を殺すことになる。同害報復の法(ius talionis)だけが、ただし(私的判断においてではなく)法廷で理解されるこの法が、刑罰の質と量を明確に示すことができる。他の原理はすぺて不確実であり、別の考慮も紛れ込むので、純粋で厳格な正義の宣告にはまったく適切ではない。―たしかに身分の相違は、同じものに同じものをという同害報復を許さないように思われる。しかしこの原理は、文字通りには可能でないとしても、身分の商い人の感受性を考慮すれば、効果の上ではつねに妥当であり線けることができる。―したがってたとえば、口頭侮辱罪に対する罰金刑は、侮辱を加えることと釣り合いがとれてはいない。というのは、金をたくさんもっている人は、ときには楽しみのために気ままに侮辱することもできるからである。しかし、一方の名誉心を傷つけることは、他方の自尊心に苦痛を与えることと十分に同等と見ることができる。犯罪者が公的に謝罪するだけでなく、同時に、被害者が身分の低い者であってもその手に接吻するようなことが判決と法によって強制されるならば、そういうことになる。身分が高い乱暴者が、身分は低いがなんの咎もない国民に加えた殴打に対して、謝罪に加えて孤独でつらい禁固刑に処せられる場合も同様である。なぜなら、これによって不自由にされる以外に、犯人の虚栄心に手痛い打撃が加えられ、このように恥辱を覚えることで、同じものが同じものにより適正に報復されることになるだろうからである。―「あなたが人から盗めば、あなた自身から盗むことになる」とはどういうことだろうか。盗みを働く人は、他のすぺての人の所有を不確実にする。だからその人は(同害報復の法に従って)、自分がもちうるすぺての所有を不確実にしてしまう。その人は何ももたず、何も取得できなくなるが、それでも生きたいと望む。だがそれは、他の人に養ってもらわなければできない。国家はしかし無償でそれを行うことはしないので、その人は自分の労力を任意の労役(手押し車で運搬する労役その他の懲役)に使うように国家に委ねざろをえず、一定期間、あるいは場合によっては永遠に、奴隷の状態に身を置くことになる。―しかし人を殺害したのであれば、死ななくてはならない。これには正義を満足させるどのような代替物もない。苦痛に満ちていようとも生きていることと死とのあいだに同等といえるところはなく、したがって、犯人に対し裁判によって執行される死刑以外に、犯罪と報復とが同等になることはない。ただしその死刑は、処刑される人格における人間性に残忍となりかねない方法で行われてはならない。−たとえ市民社会がその全成員の合意によって解体することになろうとも(たとえば島に住んでいる人民が、別れて世界中に散らばろうと決める)、そのまえに、監獄に繋がれた最後の殺人犯が死刑に処されなければならない。そうすれば、だれもがその行いに値する報いを受けることになり、この処刑を貫徹しなかったゆえに、その人民が人殺し呼ばわりされることはない。なぜなら、処刑しなければ、正義に対するこのような公的な侵害の共犯者と見なされるからである。」(『人倫の形而上学』(カント全集11・岩波書店)170頁以下)

(2)ヘーゲル
*法の回復としての刑罰・フォイエルバッハの消極的一般予防論批判・犯罪者の自己包摂
「§ 99/即自的に存在する意志(しかもこれには、被害者や万人の意志と同様に、加害者の意志も含まれる)に加えられる侵害は、この即自的に存在する意志そのものにおいては、何ら肯定的な現存在をもってはいない。それは、侵害がその侵害の単なる所産において肯定的な現存在をもっていないのと同様である。この即自的に存在する意志(法、すなわち即自的に法律であるもの)は、それだけではむしろ何ら外面的に現存在するものではなく、そのかぎりで侵害されえないものである。同様に、侵害は、被害者ないしその他の人々の特定の意志にとっては、もっぱら何か否定的なものであるにすぎない。侵害の肯定的な現存在は単に犯罪者の特定の意志としてのみ存在する。だから、定在する意志としての犯罪者の特定の意志を侵害することは、さもなければ通用してしまうであろう犯罪を廃棄することであり、したがって法を回復することである。
(Anm.) 刑法理論は、近年の実証[実定]法学にあって最もひどく失敗している論題である。というのは、この理論においては悟性は役に立たず、本質的に概念が問題となるからである。―犯罪とその廃棄、そしてこの廃棄はさらに刑罰としても規定されるのであるが、これが害悪一般でしかないものとみなされるならば、すでに他の害悪が存在しているという理由だけで別の害悪を望むことは、たしかに誰でも非理性的なこととみなすことができるということになるだろう(クライン『刑法原論』第九節以下)。害悪のもつこの表面的な性格は、さまざまな刑法理論、すなわち予防理論、懲戒理論、威嚇理論、矯正理論などのうちに、一番始めに来るものとして前提されている。そして、その代りに刑罰から結果するはずのものも、同様に表面的に善いこととして規定されている。しかし、問題は単に何かある害悪でもなければ、あれこれの善いことでもなく、不法と正義がはっきりと問題なのである。ところが、その表面的な見地から見ると、犯罪を取扱う第一にして実体的な見地である正義の客観的な考察が脇に押しやられてしまう。そして、この結果おのずから、道徳的な見地、犯罪の主観的な側面が、理性に逆らう感性的な衝動の刺激や強度についての陳腐な心理学的表象や、その表象への心理学的強制や影響についての表象と(まるでそのような衝動のうちの何か一つが自由によって偶然的なものに引き下げられることがないかのように)一緒くたにされて、本質的なものとなるのである。現象としての刑罰や、刑罰の特殊的意識への関係に属するさまざまな顧慮、さらに(威嚇とか矯正といった)表象からの帰結に関するさまざまな顧慮は、それはそれとして、それぞれの立場で、しかもとりわけ刑罰の様相に関しては、おそらく本質的な考察を含んでいようが、しかしいずれも、刑罰が即自的かつ対目的に正当なものであるという根拠づけを前提にしているものである。この当面の議論において肝心なことは、もっぱら犯罪が、しかも害悪の所産としてではなく、法としての法の侵害としての犯罪が、廃棄されなければならないということであり、そして犯罪が具え、したがって廃棄されなければならない現存在がどのようなものか、ということである。この現存在こそ除去されなければならない真実の害悪であり、したがってこの現存在がどこに存するかが本質的な点である。これに関する概念が明確に認識されないかぎり、刑罰の見解のうちに混乱が支配するのは避けられないのである。
補遺《フォイエルバッハの刑罰理論》フォイエルバッハの刑罰理論は、刑罰を威嚇の上に根拠づけ、そしてこの威嚇にもかかわらず誰かが犯罪を犯すときには、これに刑罰が加えられなければならないのは、犯罪者がすでに刑罰について承知している以上、当然であると考えるものである。しかし、威嚇の正当性とはいかなるものであろうか。威嚇は、人間を自由ならざる存在として前提し、そして害悪の表象によって強制しようとするものである。しかし法と正義とはその場所を自由と意志とのうちにもつべきであって、威嚇が向けられている不自由のうちにもつべきではない。こうした仕方で刑罰を基礎づけることは、あたかも犬に杖を振り上げるのにも似ていて、これでは人間はその名誉と自由との面から取り扱われず、犬のように取り扱われることになる。しかし、人間がこの威嚇に対抗して自己の自由を証明してみせるほどに、人間を根底的に激昂させるような威嚇は、正義を完全にないがしろにしてしまうのである。心理学的強制は単に犯罪の質的および量的な区別に関わることができるだけで、犯罪の本性そのものには関係しない。だから、この教説から作りだされたいかなる法典も本来的な基礎を欠いたものである。〈ホトーより〉
§ 100/ 犯罪者に加えられる侵害は、ただ単に即自的に正当であるだけではない。―正当なものとして、この侵害は、同時に犯罪者の即自的に存在する意志であり、彼の自由の定在であり、彼の法であり権利であるだけではなく、また犯罪者自身における法と権利、すなわち犯罪者の定在する意志のうちに、彼の行為のうちに置かれた法と権利でもある。というのは、理性的存在者としての犯罪者の行為のうちには、その行為が普遍的なものであり、行為することを通して一つの法則が立てられているということが含まれているからである。この法則を犯罪者自身は自分の行為を通じて対自的に承認してもいたのであり、そこで彼もこの法則の下に包摂されることを、自己の法なり権利の下に包摂されることとして許容しうるのである。
(Anm.) 周知のように、ペッカリアは国家に対して死刑の権利を認めなかったが、それは社会契約のうちに殺されてもよいという個人の同意が含まれていると仮定することは困難であり、むしろその逆が認められなければならないという理由からであった。だが、一般に国家はそもそも契約ではなく(§75[原文]を見よ)、また個人としての個人の生命や所有の保護保全も無制約的に国家の実体的な本質ではなく、国家はそれより高きものであって、こうした個人の生命そのものや所有そのものをも請求し、これらを犠牲に供することを要求するのである。さらに、国家が妥当せしめなければならないものは、ただ犯罪の概念、すなわち個々人の同意の有無に関わることなく即自的かつ対自的な犯罪の理性的な面だけではない。犯罪者の行為のうちには、形式的に理性的なものであるもの、つまり個人の意欲[意志](das Wollen des Einzelnen)もまた含まれているのである。この点で刑罰が犯罪者自身の権利を含むものであるとみなされるとき、犯罪者は理性的存在者として尊敬されているのである。―この尊敬は、もしも彼の行為自身から彼の刑罰の概念と尺度が取りだされないときには、彼には捧げられない。―また、この尊敬は、彼が単に無害にされるべき有害な動物とみなされたり、あるいは懲罰や矯正の目的で罰せられるときには、同様に彼には与えられない。―さらに、正義の現存在のあり方に関しては、この正義の現存在が国家のうちでもつ形式、すなわち刑罰という形式が唯一の形式ではなく、そして国家が、正義それ自体の条件をなす前提であるのではない。」(上妻精・佐藤康邦・山田忠彰『法の哲学・上巻』(ヘーゲル全集9a・岩波書店)162頁以下)原文

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by strafrecht_bt | 2015-04-07 09:00 | 刑法Ⅰ(総論)


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