刑法授業補充ブログ

strafrecht.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:意志自由論( 8 )


2017年 01月 09日

自動運転

独ベンツ、米エヌビディアと提携 車向けAIで
2017/1/7 9:17日経
 【ラスベガス=小川義也】独メルセデス・ベンツと米半導体大手のエヌビディアは6日、自動車向け人工知能(AI)分野で提携すると発表した。1年以内にエヌビディアのAIコンピューターを搭載した車をベンツが発売する。

 メルセデス・ベンツのデジタル戦略を担当するサジャド・カーン副社長とエヌビディアのジェンスン・ファン最高経営責任者(CEO)が、ラスベガスで開催中の米家電見本市「CES」で発表した。

 ベンツのカーン副社長は会見で「12カ月以内にエヌビディアの製品を搭載した車を発売する」と述べた。ただ、エヌビディアの「製品」が自動運転向けの「ドライブPX」か、車載情報・娯楽システム向けの「ドライブCX」かは明らかにしていない。

 エヌビディアのファンCEOは「メルセデス・ベンツとエヌビディアは『AIカー』に関するビジョンを共有している」と述べ、幅広い領域での連携に意欲を示した。

 2社は3年前から水面下で協業を開始。シリコンバレーとドイツ南部シュツットガルトの2カ所に開発部隊を置き、共同で開発を進めているという。

 自動運転などに欠かせない自動車用AIを巡っては、エヌビディアや米インテル、オランダのNXPセミコンダクターズ買収を決めた米クアルコムなどが火花を散らしている。独アウディや米フォード・モーター、米テスラモーターズ、スウェーデンのボルボ・カーに続いて高級車ブランドのメルセデス・ベンツと提携を決めたことは、エヌビディアにとって追い風となりそうだ。
グーグル、自動運転車のミニバン初公開 北米自動車ショー開幕
2017/1/9 21:32
保存 印刷その他
 【デトロイト=中西豊紀】北米国際自動車ショーが9日、米デトロイトで開幕した。これに先立ち米グーグルは8日、欧米自動車大手フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)と共同開発した自動運転車のミニバンを初公開した。周囲の状況を細かく認識できるのが特徴。1月末から米アリゾナ州とカリフォルニア州で公道走行実験を始める。

 グーグルの持ち株会社傘下の自動運転開発会社、ウェイモのジョン・クラフチック最高経営責任者(CEO)が自動車ショーの会場で記者会見した。「車の量産メーカーとの最初の協業だ」と述べ、実用レベルに近い自動運転車の開発に自信を示した。

 新型車にはレーザーで短距離、中距離、長距離の物体をとらえる3種のセンサーを採用した。近くの歩行者から遠くの対向車まで確実に把握できる。同センサーは高価なため通常は1基のみの搭載だが、グーグルは「かつて7万5000ドル(約880万円)以上した価格が今は9割下がった」(クラフチックCEO)と語り、採用基数を増やしたことを明らかにした。

 北米国際自動車ショーは22日まで開かれ、9日にはトヨタ自動車やホンダなどの記者会見が予定されている。
[PR]

by strafrecht_bt | 2017-01-09 21:45 | 意志自由論
2016年 05月 15日

人工知能は心を持てるか?

NHKスペシャルをみた。林原めぐみのナレショーンが良かった。「私たちはもっと早く気付くべきだったのだ・・・」
天使か悪魔か
羽生善治 人工知能を探る
初回放送
2016年5月15日(日)
午後9時00分~9時49分
関連ジャンル
宇宙・科学・テクノロジー
2016年3月、グーグルの開発した囲碁の人工知能が、世界最強と言われる韓国人の棋士に圧勝し、世界に衝撃が走った。囲碁は、人類が発明した最も複雑なゲームと言われ、人工知能が人間を凌駕するのはまだ10年はかかると言われる中での出来事だった。このまま人工知能が進化していけば、どんな未来が到来するのか。番組のリポーターとして世界各地を取材していくのは、将棋界・最高の頭脳、羽生善治さん。圧倒的な思考のスピードと深さで将棋界に君臨し、日々、「人間にしかできないことは何か」を考え続けている。囲碁の人工知能を開発したイギリスの天才研究者、専門医にも判断できないガンを、画像から精緻に見分ける人工知能を発明したアメリカのベンチャー企業、人工知能に感情を持たせる研究を続ける日本企業など、人工知能開発の最前線を取材。人工知能が人間に何をもたらすのかを探っていく。
[PR]

by strafrecht_bt | 2016-05-15 22:15 | 意志自由論
2016年 05月 15日

サピア・ウォーフ仮説と意思自由論

ベルント・シューネマン(Bernd Schünemann)がいくつかの論文 で繰り返し主張している言語学における「フンボルト・ウォーフ言語理論」 (「サピア・ウォーフ仮説(Sapia-Whorf hypothesis)」)または「言語相対仮説(linguistic relativity hypothesis)」(あるいは「言語相対論」) に基づく意思自由論の基礎づけを援用したものである。言語相対論とは、言語と人間の思考・文化の関係に関する仮説で、その源流はヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt,1767-1835)に遡り、サピア(Edward Sapir,1884-1939)とウォーフ(Benjamin Whorf,1897-1941)の言語観にその端的な表現を見いだすことができる。このサピア・ウォーフ仮説では、言語は思考を表現したりまとめたりする手段なのではなく、むしろわれわれの思考を形作る鋳型であるとされ、「強い仮説」と「弱い仮説」とがある。「強い仮説」とは、「人間の思考は言語に規定される」というもので、「言語決定論」(linguistic determinism)と呼ばれることもある 。「弱い仮説」とは、「概念の範疇化は言語・文化によって異なる」というもので、「言語相対論」というときは後者をさすことが多い。最近の論文ではシューネマンは、この強い仮説に基づき「責任と意思自由は、現実の社会的再構成において言語的コミュニケーションによって創り出され、それによって、われわれがわれわれ自身について、意思自由でないように話したり、言語的に施行することはできないことが証明されている。これによって生み出された社会的現実は、…言語によって基礎づけられる社会の、刑法によりもずっと先行する(voraus liegend)根本的階層に由来するものである」としている 。しかしこの言語相対論の「強い仮説」に対しては、言語学上の批判も強く、また実証的に証明されているとはいえないのである 。

1) ベルント・シューネマン(葛原力三・川口浩一訳)「予防刑法における責任原理の機能」同編(中山研一・浅田和茂監訳)『現代刑法体系の基本問題』(1990年)所収179頁以下、188頁以下(Bernd Schünemann, Die Funktion des Schuldprinzips im Präventionsstrafrecht, in: Schünemann (Hrg.), Grundfragen des modernen Strafrechtssystems, Berlin-New York 1984, S. 153 ff., S. 163 ff.); ders, Zum gegenwärtigen Stand der Lehre von der Strafrechtsschuld, in: Dölling (Hrg.), Festschrift für Ernst-Joachim Lampe, 2003, S. 537, 547 ff.; ders., Das Schuldprinzip und die Sanktionierung von juristischen Personen und Personenverbänden:Lehren aus dem deutsch-spanischen Strafrechtsdialog, GA 2015, 275, 278 f.
2)シューネマン・前掲(注1)188頁(Schünemann [o. Fn. 1], S. 163)。これに対して言語学では「サピア・ウォーフ仮説」という名称が使われることが多い(次注参照)。
3)東郷雄二「インターネット言語学情報 : 言語相対論」言語30巻10号(2001年)98頁以下、今井むつみ「サピア・ウォーフ仮説(Sapia-Whorf hypothesis)」/「言語相対仮説(linguistic relativity hypothesis)」辻幸夫・編『新編 認知言語学キーワード事典』(2013年)130頁、さらにジュリア・ペン(有馬道子訳)『言語の相対性について』(1980年)も参照。
4)東郷・前掲(注3)98頁。
5)Schünemann, (o. Fn. 1) GA 2015, 278 f.
6)これに関して東郷・前掲(注3)98頁は、「最大の問題は『強い仮説』を実験的に証明することが難しいという点にある」とする。また仮にシューネマンのいうように「インド・ゲルマン語族」においては、その文法形式の中に意思自由が根ざしているとしても、例えば文法形式が全く異なる日本語のような言語においてもそれが妥当するかどうかについては不明であり、また場合によってはドイツにおいては意思自由が存在するが日本においては存在しないという事態が生じうるが、そこまでの「強い仮説」は理論的にも経験的にも妥当なものとは思えない。
*一般にこの仮説には①「言語的共同社会が異なれば外界は異なった形で経験され概念化される」という強い主張と、②「認知における差異は言語における差異と結びついているという単純な陳述を超えて言語が実際にそれらの差異の原因となっている」という弱い主張が含まれるとされる(池内慈朗「芸術的思考におけるシンボル・システム理論とアフォーダンス理論からの『感性』の解釈の試み : イメージスキーマからみたメタファー概念とプロジェクト・ゼロの美術教育における視座」美術教育学30号〔2009年〕65頁、67頁)。なお、江村裕文「サピア=ウォーフの仮説について--文化(その3)」異文化・論文編8号(2007年)25頁以下、同「『サピア=ウォーフの仮説について』補説」異文化・論文編9号(2008年)25頁以下なども参照。
[PR]

by strafrecht_bt | 2016-05-15 15:36 | 意志自由論
2016年 05月 14日

フランクファートの反例に対する反論

アメリカの哲学者ハーリー・フランクファートは論文「選択可能性と道徳的責任」で有名なジョーンズの事例を挙げている。ジョーンズがあることをみずからの理由のために行おうとしていたが、ある者が同じ行為を脅迫によって行わせようした。ジョーンズはこの行為を行った。
ジョーンズ1:脅迫の影響を受けるような人間でなく、やると決めたらどんな犠牲を払っても行う。脅迫とは無関係に行った。
ジョーンズ2:脅迫されると震えあがってしまう。そこで脅迫されてその行為を行ったが、その行為はた内容は自分のやろうとしていた行為だったが、脅迫されたことにうろたえて、そのことを忘れてもっぱら脅迫におびえてその行為をした。
ジョーンズ3:脅迫の影響を受ける人間であったが、もともと行為しようとおもっていたので行為した。
ジョーンズ4:ブラックはジョーンズ4が決意するまで待って、決意がブラックが望んでいた内容と一致していたらそのままにし、そうでなければ何らかの手段(脅迫・投薬・催眠術・脳への直接的作用など)によってブラックの意図した行為を行わせた。
Harry G. Frankfurt, Alternate Possibilities and Moral Responsibility. The Journal of Philosophy, Vol. 66, No. 23. (Dec. 4, 1969), pp. 829-839
Harry Frankfurt, 1971 "Freedom of the Will and the Concept of a Person." in Journal of Philosophy 68 (1): 5-20 (Deutsch: "Willensfreiheit und der Begriff der Person." in: ders., 2001: "Freiheit und Selbstbestimmung." Berlin: Akademie Verlag, S 65-83
戸田山和久『哲学入門』330-4頁の事例(マルティン・ルターの例)
浅田和茂は、「催眠術師AはXを殺したいと思い、Bに、BがXを殺さないような兆候を示した場合には催眠術は働かないようにした」という事例について「BがXを殺さない兆候を示したとすれば、その点に(事実的)他行為可能性は認められる。この場合、それを阻止する催眠術は医師の自由を奪うものであって、Bの責任は否定される」とする。
これに対して瀧川裕英はそのような兆候を示すこと(例えば特定の仕方で赤面・痙攣する)は行為ではなく、「Xを殺さない兆候」を示すことは他行為可能性とはいえないと反論し、さらにそれが自由だとしても、ジョン・フィッシャーが批判するようにそのような「かすかな自由」(John Martin Fischer, The Metaphysics of Free Will: Essay on Control, 1994, p. 184) があるとなぜ責任があるといえるのかは不明であり、むしろ責任があるといえるためにはもっと実質的な自由が必要ではないかと批判する(瀧川41頁)。言い換えれば、このようなかすかな自由これは戸田山のいう「持つに値する自由」(336頁)とはいえないのではないだろうか。
フィッシャーに関しては以下の文献も参照。壁谷彰慶「【書評】 責任帰属とコントロール――Fischer & Ravizza, Responsibility and Control Cambridge University Press, 1998」 千葉大学人文社会科学研究 13号(2006年)188頁以下 ( Fischer & Ravizza は、著書『責任とコントロール』lにおいて、「フランクフ ァート・ケース」と呼ばれる一連の設定を具体的に吟味しながら、行為の責任についての 包括的な理論構築を目指している。本書の基本方針は、「別様にすることができた」という 様相概念に訴える「統制コントロール」ではなく、現実に 行為者が当の出来事に対して適切な因果関係をもちえたかどうかという「誘導コントロール」に注目するというものであ る。それは、当の行為を導いた人物の内的構造と、人物から当の出来事に至る外的経路が もつ特徴づけによって説明される。このアプローチの一つの利点は、別様になすことができたがゆえに帰責がなされる場合だけでなく、別様になすことができなかったにもかかわらず帰責がなされる場合をも、一貫した説明図式で対応できる点にある。本稿では、本書の基本主張と帰結責任についての議論を確認し、最後に問題点を指摘する。)
[PR]

by strafrecht_bt | 2016-05-14 19:52 | 意志自由論
2016年 05月 04日

英米分析哲学における自由意志論に基づく議論の整理

以上の議論から、刑法学において有力なフィクションとしての意思自由論は、実践的にも理論的にも妥当ではないことが明らかになった。そこで問題となるのは残された選択肢は何かということである。ここで議論を整理するために役立つのが英米の分析哲学における自由意志論 である。哲学者の野矢茂樹は、その学説を次のように整理している 。
*両立諭(①やわらかな〔ソフト〕決定論)
*非両立諭**決定論を認める(②かたい〔ハード〕決定論)
**決定論を否定する***自由を擁護する(③リバタリアニズム)
***自由も否定する(④非決定論的自由意志否定説)
ここでは詳しく検討する余裕はないが、この図式とこれまで述べてきた刑法学上の対立状況の関係を述べておこう。哲学者の美濃正は、哲学的意志自由論の動向を次のように要約している。
(1)両立説については、特にピーター・ヴァン・インワーゲンによる批判 に対して、一方で「他行為可能性」概念分析を精緻化しようとする動きと、ハリー・フランクファート(Harry Frankfurt) らによる(特にフランクファート型反例〔Frankfurt-Type Counterexamples〕 によって)「他行為可能性」を否定し議論の重点を「人格性」ないし「行為者性」へと移行させようとする動きがあるが、後者の議論は「帰責可能な行為の条件の分析を出発点とするものであったため、自由の成立条件の分析としてはやや迷路に迷いこんだ感がある。」(180頁)
(2)自由意志説については、たとえすべてが決定されていないとしても、それは自由ではなく単なる偶然の出来事に過ぎないのではないかと批判に対して、チザムに代表される行為者因果説(の修正)から反論しようとする立場とケインのような非決定論的(確率論的)因果説 によって意志自由を肯定しようとする立場があるが、後者のほうがより有望であるとされる(ただしそれは必ずしも両立説とも矛盾しないのではないかともされている)。
(3)そしてより根本的には、自由概念の再検討(182)、すなわち「『自由』概念を適切に解明し、それが科学の描き出す世界像のうちに無理なく位置づけられうるか否か明らかにすること」が必要であるとするが、この議論は一定の方向、すなわち「自由概念の解明のための鍵になるのは行為の動機(あるいは理由、目的、意図等々)との関わり方の解明だという認識」(180₋1頁、強調原文)へと収斂しつつあるとする。
この点に関して戸田山和久も決定論や自由意志論を従来のような「世界全体が決定されているかなどという形而上学的問題としてではなく、責任ある自由な行為主体と認知計算メカニズムという、二つの自己理解の対立として、この問題を考えていくのがよい」 (強調原文)とし、そのうえでチザムのような自由のインフレ理論ではなく、ダニエル・デネットのような自由のデフレ政策を採用すべきであるとする。そのような「最小限のデフレ的自由」すなわち「原自由」とは「自己コントロールの能力」(313頁)に他ならず、「決定論は自己コントロールとしての自由と両立可能」(321頁)である。そのような原自由の人間的進化形態が言語共同体内の「理由を尋ねあう実践」における「反省的自由」(325頁)であるが、そこでは「他行為可能性」はそのような自由には必要なく(332頁)、「他のようにもすることができた能力としての自由」とは、実は「過去の間違いから学び、未来の行動を修正する能力に他ならない」のであり、このような自由ならば「持つに値する自由」といえる(336頁)とされる。しかし戸田山は、デネットとともに、それが「道徳的に重要な自由」すなわち「責任のある自由」となるためにはさらに「自己と呼ばれる組織化を経由して」(357頁)「価値を自分で設定し自分をつくる自由」(369頁)である必要があるとするのである。
なお 刑法学者の増田豊 は、この自由概念の問題をドイツの精神科医で神経科学者、哲学者でもあるヘンリック・ヴァルター(Henrik Walter)の議論 を援用して自由意志の要件の問題として再構成している。ヴァルターは、カント以来、自由意志の要件として①「別様の可能性」(選択可能性・他行為可能性)、②「合理的決定性」(意味・理由指向性)、③「起動者性(Urheberschaft)」の3つが問題とされてきたとする。増田によれば、この①は「同一の事情の下でも行為者が決断・行為する可能性」すなわち「複数の選択肢が選択し得るものとして存在したということ」を、②は「理由に基づいて合理的に決断・行為する能力」すなわち「熟慮能力」による「合理的な選択」がなされたことを、そして③は「決断・行為が行為者自身に起因するということ」すなわち「『私』あるいは『自己』が決断・行為の源泉であるということ」を内容とするものである。この各要件は、上記の英米における議論に対応しており(例えば両立論を主張するデネットはフランクファートと同様に①の要件を不要であるとし、②の合理性を進化論的自然主義の立場から解釈し、③の起動者についてもチザムのような形而上学的解釈を斥け「デフレ的」解釈を試みているのである。
さらに、存在論と認識論の関係という哲学的問題との関連で、自由意志論(リバタリアニズの学説をさらに分類すれば、①「統一的な存在論・認識論範疇体系」(einheitliches ontologische und espistemologische Kategoriensystem) 内部において意志の自由の存在を立証しようとする存在論的非決定論に基づく自由意志論、②カントなどの存在論的二元論に基づく意思自由論、③存在論的には一元論を採りつつ認識論的には二元論を採る認識論的二元論に基づき、自然レベルにおいては決定論を採りつつ規範的な(刑事)責任のレベルにおいては因果性に支配されない(意志)自由を認めるという戦略(責任と決定論の両立諭)によるかである。①は前述の「相対的意思自由(非決定)諭」に、②は「やわらかな(ソフトな)決定論」に対応するものである。したがって冒頭に述べた浅田説もこの①の意味における「意思自由」の立場をとるものであるが、その論拠がこの立場と整合的かどうかが検討されるべきであろう。

刑法学的意思自由論の再分類
[PR]

by strafrecht_bt | 2016-05-04 18:30 | 意志自由論
2016年 05月 04日

刑法学における意思自由擬制説批判

(1)周知のように刑法学における責任論においては意思自由論(非決定諭〕に基づく旧派(古典学派)の「道義的責任論」と(ハードな)決定論に基づく新派(近代学派)の「社会的責任論」が対立していたが、「相対的非決定論やソフトな決定論などによって、以前保護の激しい対立ではなくなってきている」 とされる。山中敬一も現在の学説を従来の①非決定論(意思自由論)/②決定論の対立図式から③相対的非決定論(意思自由論)/④やわらかな(ソフトな)決定論や不可知論を前提とした⑤意思自由擬制説または規範的要請説へと議論が移行しているとする 。そしてこの⑤の立場における自由意思の擬制は「規範が要請しているフィクション」として「成人した人間は、異常な事情の下でのみ、責任非難を阻却しうるということであり、また、通常は、犯行への誘惑に打ち勝つのに必要な意思力を備えている」という前提から出発するということであり、「刑罰制度の観点からも、受刑者を治療の対象としてではなく、自由な人格をもった人間として処遇することを要請されている」 ものであるとする。山中と同様、この規範的要請説を支持するのは井田良である。すなわち井田は「責任の有無と程度を決めるための基準としての自由と可能性は、経験的事実ではなく、規範的要請ないし仮設(仮「設」であって、仮「説」ではない)として根底に置かれなければならない」 とするのである。さらに高橋則夫も「そもそも、自由意思と決定論が両立しないものなのか、あるいは両立し得るものなのかという前提問題すら解決されていない」としたうえで、社会心理学者小坂井敏晶の議論 を援用して「責任は実体としての責任ではなく、社会的虚構とさえいえる」が、「このような社会的虚構がなければ社会が存立することはできず、その結果、責任および刑罰は、自由意思を仮設として前提しなければ、存立不可能な制度と理解せざるを得ない」 とする。
(2)このような「虚構ないしフィクションとしての意思自由論」に対して、浅田は、正当にも「疑わしきは被告人の利益に」の原則に反するものであると批判している(上記テーゼ③参照) 。林幹人も同様に「犯罪の内容である責任を、『フィクション』によって構成するべきではない」、すなわち「国家が人に重大な不利益を科する前提としての刑事責任について、有るかどうかわからないものを、『有る』と擬制するべきではない」とする 。このような批判について安田拓人は「他行為可能性を否定し、特別予防論に基づく刑事制裁を構想する場合に比べ、他行為可能性を肯定し、法的非難としての責任・刑罰を構想する方が、行為者にとって有利なのだから、他行為可能性は『フィクション』であってもよい」 と反論している。
(3)しかし本当に特別予防論に基づく刑罰制度の方が自由意思に基づく責任に基づく刑罰制度よりも、対象者にとって有利なのだろうか。アメリカの哲学者ダーク・ペレブーム(Derk Pereboom)はその著書『自由意志なしで生きる』 で後述のハード決定論(ハード非両立論)に基づいて、現在有力に主張されている刑罰理論 である①応報主義、②道徳教育論、③帰結主義的抑止論、④正当防衛論を批判し、唯一正当化できるのは「隔離」だとする。そしてこの「隔離」が正当化されるのは対象者の危険性が立証される場合に限定され、隔離中に行われる「治療」(危険除去処置)についても「人間の尊厳を犯すような治療までが許されるわけではない」 とする。これに対してアメリカや日本の刑罰制度はペレブームによればありもしない(あるいはフィクションにすぎない)意思自由に基づいて、再犯の危険性のない行為者に対しても刑罰(場合によっては死刑)を加えていることになり、その方が対象者にとって必ずしも有利であるとは断定できないであろう。また(科学)哲学者の戸田山和久は、ペレブームのいう自由意志なき世界は、スピルバーグの映画『マイノリティ・レポート』に描かれているような、「将来、反社会的行動をするように決定されている人間をスクリーニングしてあらかじめ予防拘禁する」「究極の管理社会」、「ディストピア」 になってしまうとは限らず、「意志の自由の概念がなく、したがって責任を負うとかとらせるという実践もなく、だけど市民的自由は保障されている社会はありうる」 とする。
さらにフィクション論の基礎には、いくら議論しても、結局、意思自由が存在するかどうかは知ることはできないとする不可知論があるが、ミヒャエル・パヴリック(Michael Pawlik)が指摘するように、意思自由論を擁護するために、不可知論または「意思自由が存在しないということは証明されていないが、それが存在するということも証明されていない」 というノン・リケット諭を援用するのはカテゴリー的に誤りであり、規範的要請としての意思自由論も誤解を招くものである 。すなわち増田豊が指摘するように「実体二元論(存在論的二元論)は論外であるが、自由意思を擁護するためには、何らかの意味における二元論に依拠しなければならない」 からである。また高橋が強調する社会的制度としての責任は、哲学者ピーター・ストローソンの意味における「人格的反応的態度(personal reactive attitudes)」 として社会的に「実践」されているものであり、それを「虚構」であるとするのは誤解を招きやすい表現であろう。

浅田和茂の意思自由論
[PR]

by strafrecht_bt | 2016-05-04 12:01 | 意志自由論
2016年 03月 06日

Pereboom 自由意志懐疑論と刑罰(論文紹介)

"Free Will Skepticism and Criminal Punishment," in The Future of Punishment, Thomas Nadelhoffer, ed., New York: Oxford University Press, 2013, pp. 49-78.
[PR]

by strafrecht_bt | 2016-03-06 17:04 | 意志自由論
2016年 02月 15日

汎心論関連論文

1.浅野光紀「汎心論と心的因果ー心身問題の解決に向けてー」思想1102号(2016年)7‐24頁
2.浅野光紀「汎心論と物理主義」哲学135号25-43頁(2015年)
3.増田豊「洗練された汎心論は心身問題解決の最後の切札となり得るか : パトリック・シュペートの『段階的汎心論』のモデルをめぐって」 (木間正道教授古稀記念論文集)法律論叢 87巻4・5号 69-99頁(2015年)
4.伊藤春樹「意識の本質をどこに置くか : 汎心論的眺望と意識の進化」 (野家啓一先生御退職記念号) 思索 = Meditations 45号39-63頁(2012年)
5.鈴木敏昭「クオリアと意識のハードプロブレム 」理論心理学研究 10巻1号1-17頁(2008年)
[PR]

by strafrecht_bt | 2016-02-15 00:18 | 意志自由論