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刑法授業補充ブログ

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2016年 05月 04日

英米分析哲学における自由意志論に基づく議論の整理

以上の議論から、刑法学において有力なフィクションとしての意思自由論は、実践的にも理論的にも妥当ではないことが明らかになった。そこで問題となるのは残された選択肢は何かということである。ここで議論を整理するために役立つのが英米の分析哲学における自由意志論 である。哲学者の野矢茂樹は、その学説を次のように整理している 。
*両立諭(①やわらかな〔ソフト〕決定論)
*非両立諭**決定論を認める(②かたい〔ハード〕決定論)
**決定論を否定する***自由を擁護する(③リバタリアニズム)
***自由も否定する(④非決定論的自由意志否定説)
ここでは詳しく検討する余裕はないが、この図式とこれまで述べてきた刑法学上の対立状況の関係を述べておこう。哲学者の美濃正は、哲学的意志自由論の動向を次のように要約している。
(1)両立説については、特にピーター・ヴァン・インワーゲンによる批判 に対して、一方で「他行為可能性」概念分析を精緻化しようとする動きと、ハリー・フランクファート(Harry Frankfurt) らによる(特にフランクファート型反例〔Frankfurt-Type Counterexamples〕 によって)「他行為可能性」を否定し議論の重点を「人格性」ないし「行為者性」へと移行させようとする動きがあるが、後者の議論は「帰責可能な行為の条件の分析を出発点とするものであったため、自由の成立条件の分析としてはやや迷路に迷いこんだ感がある。」(180頁)
(2)自由意志説については、たとえすべてが決定されていないとしても、それは自由ではなく単なる偶然の出来事に過ぎないのではないかと批判に対して、チザムに代表される行為者因果説(の修正)から反論しようとする立場とケインのような非決定論的(確率論的)因果説 によって意志自由を肯定しようとする立場があるが、後者のほうがより有望であるとされる(ただしそれは必ずしも両立説とも矛盾しないのではないかともされている)。
(3)そしてより根本的には、自由概念の再検討(182)、すなわち「『自由』概念を適切に解明し、それが科学の描き出す世界像のうちに無理なく位置づけられうるか否か明らかにすること」が必要であるとするが、この議論は一定の方向、すなわち「自由概念の解明のための鍵になるのは行為の動機(あるいは理由、目的、意図等々)との関わり方の解明だという認識」(180₋1頁、強調原文)へと収斂しつつあるとする。
この点に関して戸田山和久も決定論や自由意志論を従来のような「世界全体が決定されているかなどという形而上学的問題としてではなく、責任ある自由な行為主体と認知計算メカニズムという、二つの自己理解の対立として、この問題を考えていくのがよい」 (強調原文)とし、そのうえでチザムのような自由のインフレ理論ではなく、ダニエル・デネットのような自由のデフレ政策を採用すべきであるとする。そのような「最小限のデフレ的自由」すなわち「原自由」とは「自己コントロールの能力」(313頁)に他ならず、「決定論は自己コントロールとしての自由と両立可能」(321頁)である。そのような原自由の人間的進化形態が言語共同体内の「理由を尋ねあう実践」における「反省的自由」(325頁)であるが、そこでは「他行為可能性」はそのような自由には必要なく(332頁)、「他のようにもすることができた能力としての自由」とは、実は「過去の間違いから学び、未来の行動を修正する能力に他ならない」のであり、このような自由ならば「持つに値する自由」といえる(336頁)とされる。しかし戸田山は、デネットとともに、それが「道徳的に重要な自由」すなわち「責任のある自由」となるためにはさらに「自己と呼ばれる組織化を経由して」(357頁)「価値を自分で設定し自分をつくる自由」(369頁)である必要があるとするのである。
なお 刑法学者の増田豊 は、この自由概念の問題をドイツの精神科医で神経科学者、哲学者でもあるヘンリック・ヴァルター(Henrik Walter)の議論 を援用して自由意志の要件の問題として再構成している。ヴァルターは、カント以来、自由意志の要件として①「別様の可能性」(選択可能性・他行為可能性)、②「合理的決定性」(意味・理由指向性)、③「起動者性(Urheberschaft)」の3つが問題とされてきたとする。増田によれば、この①は「同一の事情の下でも行為者が決断・行為する可能性」すなわち「複数の選択肢が選択し得るものとして存在したということ」を、②は「理由に基づいて合理的に決断・行為する能力」すなわち「熟慮能力」による「合理的な選択」がなされたことを、そして③は「決断・行為が行為者自身に起因するということ」すなわち「『私』あるいは『自己』が決断・行為の源泉であるということ」を内容とするものである。この各要件は、上記の英米における議論に対応しており(例えば両立論を主張するデネットはフランクファートと同様に①の要件を不要であるとし、②の合理性を進化論的自然主義の立場から解釈し、③の起動者についてもチザムのような形而上学的解釈を斥け「デフレ的」解釈を試みているのである。
さらに、存在論と認識論の関係という哲学的問題との関連で、自由意志論(リバタリアニズの学説をさらに分類すれば、①「統一的な存在論・認識論範疇体系」(einheitliches ontologische und espistemologische Kategoriensystem) 内部において意志の自由の存在を立証しようとする存在論的非決定論に基づく自由意志論、②カントなどの存在論的二元論に基づく意思自由論、③存在論的には一元論を採りつつ認識論的には二元論を採る認識論的二元論に基づき、自然レベルにおいては決定論を採りつつ規範的な(刑事)責任のレベルにおいては因果性に支配されない(意志)自由を認めるという戦略(責任と決定論の両立諭)によるかである。①は前述の「相対的意思自由(非決定)諭」に、②は「やわらかな(ソフトな)決定論」に対応するものである。したがって冒頭に述べた浅田説もこの①の意味における「意思自由」の立場をとるものであるが、その論拠がこの立場と整合的かどうかが検討されるべきであろう。



(1)存在論的レベルにおける一元論的意思自由論と二元論的意思自由論
浅田と同じく「相対的意思自由論」の立場に立つ内藤謙は、「経験的事実の世界でも、非決定論(=自由意思肯定論)に傾いている」 と述べているが、その根拠は示されていない。カントの「叡智界/感性界」のような(存在論的)二元論を採らずに、一元論的に「自由意思」の存在を主張しようとするならば、経験的事実の世界においても(経験的事実という同一レベルで)人間の意志が因果的には決定されていないということを証明しなければならないが、そのような証明は、現在の自然科学的な「唯物論的」世界観からは、量子力学におけるミクロレベルの現象を除いて 、不可能であるといわざるをえない。それにもかかわらず自由意志論を基礎づけようとするならば、行為者こそが行為の究極の原因(あるいは「起動者」)であるとする「行為者因果説」によるか次に述べる「非決定論的(確率的)因果説」によるしかないことになろう。
(2)確率的・統計的(非決定論的)因果論に基づく意思自由論
林幹人は、「やわらかな決定論」は「刑法の予防目的から,責任の内容を規定しようとしている点で,正当なものと思われる」が、「ただ,この見解は厳密な意味での決定論に立っているのであるが,これには疑問がある」とする。すなわち、「この世界は,決定論の説くようにすみずみまで法則の支配下にあるのかは,われわれは知らないし,おそらく知りえないことである。 われわれが知っているのは,この世界が,人間の意思・行為も含めて,確率的・統計的に決定されているということである」とし「モデストな決定論」を主張する。そして「このことは,誰も疑うことのできない,この世界の基本的な真理であり,このことだけが刑法の前提となるのである」とする。ここで林は自説を決定論の一種であると主張していうが、上述の哲学的議論における分類によれば、むしろ自由意志肯定論のヴァリエーションであるケインの「自由な行為とは行為者の動機あるいは理由を非決定論的(確率的)原因とする出来事であるとする」「非決定論的(確率的)因果説」と類似の見解であるといえよう。しかしケインがそこで原因としているのは「自己形成行為」(意志の葛藤が生じた際に、それを乗り越えて選択され実行される行為)であるが、林は 「犯罪行為は,行為者の反規範的意思に基づくものであり,その反規範的意思は過去の学習によって形成されたものであり,そして,犯罪を処罰することによって人々の規範意思を強化し犯罪を犯す可能性を減少させることができるという意味での法則(それは法則というにはあまりに粗雑なものであるが)がある」とし、「反規範的意思としての責任」は,刑法の目的から要求されるものであり、「反規範的意思をもって違法行為を行ったことを根拠として処罰することによって,将来人々が反規範的意思をもたないように条件づけ・動機づけようとするのであ」り、「反規範的意思がなかった者をも処罰するときは,人々は反規範的意思をもたないように努めなくなるであろう」とする。そして「刑法上自由意思とはこの反規範的意思をもって行為したことを意味し,他行為可能性とは現実には反規範的意思をもっていたことを前提として,あるべき規範意思をもっていたならば他行為可能であったことを意味し,期待可能性とはそのようなあるべき規範意思をもつことが期待できたことを意味する」とする 。しかしケインによって非決定論的に形成されたとされる自己あるいはその性格は、(それが実在するとしても)必ずしも意志の葛藤に基づく選択によってのみ決定されるだけでなく、目的達成のためには、何の葛藤もなく殺人などの犯罪を犯す「サイコパス」の事例にみられるように、何を「選択」するかが例えば「人格障害」などによって予め決定されている場合もあり、突き詰めて考えればあらゆる選択や決定は、それが一見(prima facie)「自由意志」によるように見える場合であっても、それに先行する何らかの要因によって決定されている可能性は否定できないのではないだろうか。林も「反規範的意思」が(確率論的意味で「自由な」)「学習によって形成された」ものであることを根拠にして責任を認めているが、ここにも同様の問題があるのではないだろうか。さらに林が断言している統計的・確率論的法則のみが「誰も疑うことのできない,この世界の基本的な真理」であるということにも疑問の余地がある。確かに、カナダの科学哲学者イアン・ハッキング(Ian Hacking)が「第二次科学革命」 と呼んだ決定論的因果法則とは別の統計的・確率的法則の発見による科学的知識の確実性の喪失や量子力学によるミクロレベルにおける世界の非決定性の証明などは、「誰も疑うことのできない,この世界の基本的な真理」であると現在では考えられているといってよいであろう。しかし、われわれの意思自由(自由意志)の問題が、例えば脳内に存在する、次の状態が確率論的にしか決まらない「量子サイコロ」がふられ、それが自由意志の正体であるといった議論を、戸田山は次のような2つの疑問点を挙げて批判している。すなわち、①量子論的非決定性は、あくまでミクロレベルに関するものであって、マクロレベルの問題であるわれわれの「行為のレベルでは、ミクロレベルの非決定性は相殺されて、計算メカニズムとしてのわれわれにはおおむね決定論的な法則が当てはまると考えることもできる」という疑問と②仮にマクロレベルのわれわれの行為においても(統計的・確率的にしか)決定されていないと考えたとしても、それが偶然の産物なら自由だとはいえないのではないかという疑問である。この②は、言い換えればランダムであるということと自由であるということは異なるということであろう 。重要なのは後者の疑問点であり、もしそれが自由なものであるといえないのであれば、そのような考え方は、自由意志論ではなく3で挙げた野矢の分類の④の決定されていないが自由でもない「非決定論的自由意志否定説」になってしまうであろう。逆にいえば、たとえ(統計的・非確率的)非決定論が証明されたとしても、自由であることが積極的に示されなければならないのである。
(3)認識論的二元論に基づく(言語ゲーム的)「認識論的自由意志論」(「批判的責任論」)
日本の刑法学における意思自由論(自由意志論)のなかで最も哲学的でかつユニークなものとして位置づけられるのが増田豊の「認識論的自由意志論」であることに異論はなかろう。増田はまず方法論的に「超自然的な心的実体を認める存在論的二元論(デカルト主義)」も心的要素を消去する「消去主義」も物理的「還元主義」も斥け、「一つの実体(包括的な自然)について異なる説明パースペクティヴ、異なる言語ゲームを想定する認識論的二元論という方法論的戦略」を採用し、遂行的意味にもかかわる自由意志の「意味理論的性質」に着目する。「成層モデル」、「創発理論」、「スーパーヴィーニエンスの概念」、「下位方向への因果作用(トップダウンの因果作用)の概念」
増田・前掲書『規範論による責任刑法の再構築』475—6頁脚注(16)階層・成層理論(Hartmann等)506頁以下、517頁脚注(11)、519頁 脚注(15)、(16)、520頁脚注(20)を参照。
「自由(目的的決定)と自然的因果性とを『エレガントな仕方』で調停しているように見えるが、どのようにしてこの目的的決定が、〈可能的な〉因果連鎖ではなく、〈現実的な〉自然的因果連鎖にまで作用するのかという問題が、カントにおける『自由に基づく因果性』の場合と同様に、解決されていない」のではないかという疑問が提示されているが、「創発理論と結びつけられた階層/成層モデルは、脳科学においても自然の構造を理解するために益々重要な理論的戦略となっているように思われる」とされる(増田・274-5頁脚注(16))。
…とりわけわれわれのような法学(刑法学)の研究者が、デモクリトス(決定論)やエピクロス(非決定論)の議論以来およそ2500年に及んで論争されてきた問題、つまり<存在論レベルで決定論をとるか、それとも非決定論を採用するか>という問題について自己の能力を顧みずに具体的な態度表明を行うとすれば、それは、まさに科学的根拠のない単なる信仰告白の域を出るものでなく、自己の無知蒙昧を無用に露呈することになるだけだろう。
増田豊『規範論による責任刑法の再構成』577頁
5 浅田説の位置づけ
上述のように浅田は意思自由論の根拠として挙げるのは、次の2点である。①そこにおける自由とは「『あるものからの自由ではなく、『あるものへの自由』であって、因果連関からではなく意味連関から生ずる決定因子を付加することにより、因果過程を被覆決定する、という意味であ」ること及び②それが「現実の社会、われわれの文化に深く根ざしている」ことである 。このうちの①について佐伯仁志は、次のように批判している。すなわち「しかし.決定因子が『意味連関から生ずる』とは何を意味するのだろうか。浅田教授は,心身二元論をとられるのだろうか。また、現実には存在しなかった決定因子を付加するとは、行為時の『同一の条件の下での』他行為可能性ではなく、『類似した条件の下での』他行為可能性を問題にしていることになるのではないだろうか。もしそうであれば.それは決定論と矛盾する立場ではない。」 この批判を検討するためには、浅田が援用するアルトゥール・カウフマン(Arthur Kaufmann)の見解を検討することが必要であろう。カウフマンによれば、「倫理的に自由な行為は、因果的決定への否認の点ではなくむしろその被覆決定の点に(正確には、そのような被覆決定の可能性の点に)ある」、すなわち「それは、別の種類の固有の決定因子、すなわち世界の因果連関からではなく、その意味連関から生じる決定因子を付加すると点において成り立つ。」 特に、そこではニコライ・ハルトマン(Nicolai Hartmann)の見解 が援用されていることに注目すべきであろう。ハルトマンによれば「倫理的意思を特徴づけるのは、何らかの決定因子の放棄ではなく、決定にマイナスではなくまさにプラスを新たに付け加えることであ」り、目的に向かって初めから固定されているのではない因果経過に、目的に合わせて法則性を洞察する者が新たなプラスを付け加え操縦することは可能でありこれは因果法則〔に基づく決定論〕に矛盾するものではないとするのである 。この引用部分からも明らかなように、これは両立論的決定論に基づく立場 であり、その見解を非両立論的自由意志論の根拠とすることはできないものであり、カウフマンの立場も、この引用部分の直後に「固い決定論」すなわち非両立論的決定論を批判しているのであり、浅田の主張する「相対的意思自由論」ではなく、むしろ両立論的決定論を採るものと理解するほうが自然であろう。また佐伯仁志は、浅田説に対して①そこにいう決定因子が「意味連関から生ずる」とは何を意味するのか、②これは心身二元論 に基づくものなのか、③「現実には存在しなかった決定因子を付加するとは、行為時の『同一の条件の下での』他行為可能性ではなく、『類似した条件の下での』他行為可能性を問題にしていることにな」り、「もしそうであれば.それは決定論と矛盾する立場ではない」のではないか、という疑問を提起している。
さらに、結論的には類似した責任論を主張する松宮孝明も「現在の多数説は、まだ非決定論にこだわって、人間の意思には決定される部分と決定されない部分とがあるとし、その決定されない部分が『責任』を根拠づけるとする『相対的非決定論』によれば『責任が重ければ重いほど、刑罰は効果をもたない』というジレンマに陥ることになる」との批判を加え、これに対し「今日の『決定論』は、『意味による決定』」を重視する」ものであり、「非難」という意味を重視する限りで、それは「道義的責任」であり、責任が「道義的」(=倫理的)であることは、法と倫理を混同するものでもなく、「法と倫理の混同とは、社会にとって有害ではない行為を、-たいていは時代遅れの-倫理に反するという理由で処罰することをいう」のであるので「法と倫理の峻別は、責任のもつ『非難』という倫理性を否定するものではな」く、「以上のような意味で、『決定論』と『道義的責任論』は調和しうる」 として両立論的決定論の立場に立っているのである。
次に前述の②の論拠、ベルント・シューネマン(Bernd Schünemann)がいくつかの論文で繰り返し主張している言語学における「サピア・ウォーフ仮説(Sapia-Whorf hypothesis)」 に基づく意思自由論の基礎づけを援用したものである。浅田が引用している箇所は、比較的初期の論文であるが、最近の論文
このサピア・ウォーフ仮説では、言語は思考を表現したりまとめたりする手段なのではなく、むしろわれわれの思考を形作る鋳型であるとされる。シューネマンは、この強い仮説に基づき「責任と意思自由は、
この点について浅田和茂は、フランクファートの反例でXがYを殺さない兆候を示したとすれば、その点に他行為可能性が認められると主張している。つまり、〈Yを殺さない兆候を示す〉ことが、他行為可能性だというのである。しかし、〈Yを殺さない兆候を示す〉ことは、赤面や痙攣の例から明らかなように、行為ではない。したがって、〈Yを殺さない兆候を示す〉ことは、他行為可能性とはいえない。
以上の考察により浅田の(非両立的)意思自由(自由意志)肯定論(リバタリアニズム)には、①現在の多くの哲学者・科学者たちが共有する(唯物論的)存在論的一元論と調和しない前提に基づいているのではないかという疑いがあり、②自由概念の要件が十分に示されておらず、

by strafrecht_bt | 2016-05-04 18:30 | 意志自由論


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