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刑法授業補充ブログ

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2016年 12月 05日

法と環境11:環境倫理学(6)

【補充】生命中心主義(Biocentrism)
生態学的、地球中心主義的な世界観を強調する哲学のこと。生命中心主義は、人間と自然を人間中心主義に見られるような「支配-被支配」という関係ではなく、有機的なつながりを持つ生態系の一員であるにすぎないとみなす。人間以外の構成員は、自然の法則に忠実にしたがっているが、人間のみが自己利益のために自然の法則を無視していると考える。このため、人間は他の構成員に対して、道徳的義務を一方的に負わねばならず、生態系はその倫理的対象となる。つまり、生命中心主義の立場における環境保護は、人間の利益のため行うものではなく、生態系それ自身がもつ価値を守るために行うこととなる。このような生命中心主義は、その後、自然の権利思想へと発展することとなった。

主唱者:
*アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer, 1875 - 1965:写真)は、ドイツ出身のアルザス人で、ドイツ系の神学者・哲学者・医者・オルガニスト・音楽学者→「生命への畏敬」
*P.W.テイラー(1923-2015)
P. W. Tayler; The Ethics of Respect for Nature. 1981
➀ 人間はこの地球に存立する生命共同体のメンバーである。人間がこのメンバーであるための諸条件は、人間以外のあらゆるメンバーの諸条件と同一である。
② 地球の自然的エコシステムは、もろもろの要素が互いにからみあった一つの全体とみることができる。この全体のなかでおのおのの存在の生物学的な健康(健全な働き)は他の存在の健康(健全な働き)に依存している。
③ 個々の有機体(生きもの)は一個の生きた目的論的な中心であり、自分自身にとっての善いことをそれ独自の仕方で追求している。
④ 人間はその本性にもとづき他の種よりもまさるという要求は、根拠のない非合理的な偏見である。

日本の法学者の見解
北村宣喜:人間中心主義
伊東研祐:人間非中心主義(生態系中心主義)
高橋広次:総合説(人間中心主義+人間非中心主義+環境正義論)
北村喜宣(1960-)の見解
総論:「法学を議論する以上…人間を中心に考えざるをえない」ので→人間中心主義を採用するが、但し「『人間が環境を支配する』という不遜なしせいであってなら」ず、「『環境に行かされている』『自然に感謝する』『環境容量に配慮しながら活動する」という認識が絶えず踏まれるべきである」(北村・環境法10頁)とする。
環境基本法(特に3条)の解釈:「…環境基本法は、人間中心主義の立場に立つことを明らかにしている。法は人類のためにあることから、基本的立場としては適切である」が、「そのうえで、過度の『現在世代中心主義」に陥ることなく、将来世代、生態系、将来の地球を考えた背作を立案・実施しなければならない」(北村・274頁)とする。

環境基本法3条
(環境の恵沢の享受と継承等)
第3条  環境の保全は、環境を健全で恵み豊かなものとして維持することが人間の健康で文化的な生活に欠くことのできないものであること及び生態系が微妙な均衡を保つことによって成り立っており人類の存続の基盤である限りある環境が、人間の活動による環境への負荷によって損なわれるおそれが生じてきていることにかんがみ、現在及び将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受するとともに人類の存続の基盤である環境が将来にわたって維持されるように適切に行われなければならない。

伊東研祐(1953-)の見解
生態系中心主義からのアプローチ
環境犯罪を処罰する目的は,環境保全に係る行政規制違反の回復(当該規制の妥当性の確認)だけに止まるものではなく,環境保全に向けた人々の倫理感を覚醒させ,維持すること(刑罰権行使による倫理形成機能)にもあるとされ,環境刑法の保護法益は生態系自体であり,環境犯罪は,この意味での法益に対する抽象的(一具体的)危険犯であると主張された。
環境刑法の保護法益の理解は,環境犯罪の罪質と構成要件の在り方にも関連していることが,改めて認識されるに至った。即ち,保護法益を広く環境の機能それ自体と捉えれば捉えるほど,環境犯罪は,(そうした保護法益に対する)(具体的,更には抽象的)危険犯となる。
更に,環境犯罪は,環境を規制する行政法規に従属するべきものではなく環境倫理の形成を目指して,刑法学の観点から,独自に構成されるべきだ,との理解に至り易いということである。
高橋広次(1948-)の見解
人間非中心主義/人間中心主義の問題点(高橋・環境倫理学入門146頁以下)
人間非中心主義:生物個体に固有のインタレスト(利害関心)、主体性
「権利」はあるか?:「倫理の主体」/「生命の主体」の区別
人間=道徳的行為の「主体」/人間以外の生物=道徳的配慮の「客体」
人間の内なる「種」の尊重
ヨーナス:世代間倫理の典型としての親子関係:
乳飲み子を助ける親の一方的行為⇒倫理的?:自然主義的誤謬?
「乳飲み子倫理」:「倫理学と生物学の先例のない融合」/「どの世代にも科せられる人間的種の維持の問題」(高橋149頁)
「人格の目的」/「自然の目的」
環境正義論の問題点
あくまで近代的な精神(文化)の枠内の議論⇔「持続可能なな社会を生きるためには、近代とは異なった精神になじまなければ、住み難いものとなろう。」(高橋152頁)
「里山」の思想など
*鬼頭 秀一(1951年 - )
*丸山徳次(1948-)
丸山徳次・宮浦富保編『 里山学のすすめ ― <文化としての自然>再生にむけて』(2007)
かつての主流の環境倫理は、人間以外の生き物や生態系の内在的価値(それ自身としての価値)を強調し、そうした生き物を人間のために利用する立場を、環境破壊を助長する人間中心主義と非難してきた。この見解によれば、人間は自然あるいは生態系に介入してはならないことになる。しかし、自然の絶対的な「保存」が常に自然保護に役立つわけでもなければ、人間による自然の利用が必ずしも環境破壊に結びつくわけでもない。ある種の自然環境では、人の手が入ることで多様な種と生物が存続してきた。本書で提起されている「里山学」は、「里山」という人間と自然とが関わる場を体系的に分析および評価する試みと言える。

里山とは
 「里山」とは、広い意味では里山林・田んぼ・ため池・用水路・畦などがセットになった農業環境・農業景観のことを指し、狭い意味では稲作農業に必要な肥料や木材、薪炭をとるための農用林(里山林)のことを指します。 「里山」は、人間が長期にわたって手を入れ利用してきた「文化としての自然」であり、日本人にとっての原風景とも呼べる景観です。
 しかし、エネルギー革命(薪炭から石油・ガス・電気への変化)と農業革命(圃場整備・機械化・化学肥料の大量投入)によって、樹木の伐採や落葉かきなどの伝統的な里山管理が行われなくなり、里山は放置されていきました。 利用価値を失った都市近郊の里山林は、開発のターゲットにもされてきました。
 このような戦後のエネルギー革命や農業革命に伴い、経済活動の広域化がいっそう加速し、伝統的な地域経済を支えてきた里山をめぐる日本文化が次々と失われてきました。 たとえば、里山の持続的利用を可能にしてきた伝統的な森林管理技術、里山の植物利用の知恵、水田稲作に関連した民俗儀礼なども失われつつあります。
 手入れされた里山は、結果的に生物多様性を維持する仕掛けともなり、里山環境に適応した多くの生きものたちの住みかでもありました。 里山の管理放棄・開発・農業様式の変化などによって、いま里山の生物多様性が大きく失われようとしています。




【問1】次の①~⑩に適当な語を入れよ。
1.環境倫理学(Environmental Ethics)とは、人間と自然の関係についての道徳的なあり方を考える学問である。加藤尚武(1937~)は、環境倫理学の主張を、(1)(①  )の生存権、(2)(②   )倫理、(3)地球(③  )主義 の3つに整理している。さらに、加藤尚武によると、環境倫理学は、従来の意思決定の枠組みを問い直すものであると位置づけられる。例えば、正義、権利、平等、自由、個人主義、近代化、進歩主義、保守主義、民主主義など、我々が当然としている概念が、環境倫理学においては根本的な疑問にさらされると主張する。
2.環境倫理学の歴史
(1)アメリカにおける環境倫理学は、アルド・レオポルド(1886~1948)が提唱した「(④  )倫理」(人間と自然との関係を「支配-被支配」ではなく、生態学的に平等関係であるとする倫理)に始まるとされる。レオポルドは、「④倫理は、ヒトという種の役割を、④という共同体の征服者から単なる共同体の一員、一構成員へと変えるのである。これは仲間の構成員に対する尊敬の念の表れであると同時に、自分の所属している共同体への尊敬の念の表れでもある」としている。また、「④は人間が所有する商品とみなされているため、とかく身勝手に扱われている。人間が④を自らも所属する共同体とみなすようになると、もっと愛情と尊敬を込めた扱いをするようになるだろう。」とする。レオポルドは、人間は生態系という共同体の一員にすぎないと捉えた。そして、生態系が人間にとってどのような価値を持つのかということとは無関係に固有の価値があるとした。このような主張は(⑤  ) 主義を批判するものであるといえる。またリン・ホワイト(1907~1987)も⑤主義を批判し、それは(⑥    )教が「人と自然の二元論をうちたてただけではなく、人が自分のために自然を搾取することが神の意志であると主張した」ことに由来するものだとした。
(2)またこのような⑤主義は(⑦    )倫理に由来するものだとする指摘もある。⑦倫理とは、⑦を無限に拡大することによって、永続的な人類の発展が可能になるという倫理であり、人間が自然の支配者であり、自然は人間の欲望を満たすための手段とみなす⑤的な倫理観に基づくものである。バイソンを絶滅させたアメリカのカウボーイなどをはじめ、全史を通じて、人類は欲望のために資源を略奪してきた。こうした行為は「野蛮な」ものを支配するための「聖戦」として、崇め、尊敬された。そのことから⑦倫理のことをカウボーイ倫理ともいう。このような倫理観は、近代以降の急速な経済的拡張という人間の目標に役立ち、豊富な資源と際限のない⑦が存在する間はうまくいっているようにみえた。しかし、人間活動が巨大化し、地球の有限性に直面している今日、地球の無限性を前提とする⑦倫理は破綻した。このため、⑦倫理の支持者は、たとえ資源が限られていても、(⑧  )技術がその汚染と枯渇の問題を解決し、⑦倫理を追及できるという、「⑧万能主義の神話」へとその前提を方向転換したといわれている。シュレーダー=フレチェット(1944~)は、環境問題は、地球を1つの(⑨   )に例えた⑨倫理を採用せず、⑦倫理を追及してきた結果であり、人類は、地球の有限性・閉鎖性・関係性を前提とした⑨倫理を社会システムに採用する必要があり、その社会は、人口・工業化・経済膨張の制限の原理によるものでなければならないとする。
(3)1972年にノルウェーのアルネ・ネス(1912~2009)によって提唱された(⑩  )エコロジーは、人間の利益のためではなく、生命の固有価値が存在すると考えるゆえに、環境の保護を支持する思想である。ネスによると、すべての生命存在は、人間と同等の価値を持つ。従って、人間が、生命の固有価値を侵害することは許されないとされる。⑩エコロジーにとって、環境保護は、それ自体が目的であり、人間の利益は結果にすぎないのである。しかし、生命の固有価値の存在をどのようにして証明できるのかという問題がある。解答のひとつとしては、原生自然体験や理性的直感によるというものがある。 
【問2】環境をめぐる倫理思想に関する記述として最も適切なものを,次の1から5までの中から選びなさい。
1.19 世紀末のアメリカでは,保存主義(preservationism)と保全主義(conservationism)の2つの立場が対立していた。保存主義とは,人間による自然資源の効率的利用を目指すものであり,保全主義とは,自然を原生のまま保護することを目指すものである。
2.非人間中心主義とは,古代のギリシア哲学以来の人間中心の自然観を否定し,人間は自然に全面的に服従することで,人間から独立した自然を客観的に観察し,そこで見いだされた法則を利用し自然を制御しようとする考え方である。
3.スモール・イズ・ビューティフルとは,限りある自然の資源や土地を効率的に活用することで,安定した経済成長が可能になるとした考え方である。
4.世代間倫理とは,例えば,現世世代が無制限に成長を続けて,地球資源を使い果たし将来世代に大きな負荷を与えることを不正とみなし,将来世代の生存や権利に深く配慮すべきとする考え方である。
5.環境正義とは,人間の自然に対する優位性を否定し,人間を自然の一部と捉え,地球に存在する様々な生物種に,人間と同様に,生存の権利を認めるべきだという考え方である。
【問3】次の①~③の判決や理論から1つを選んで、説明し、それに関する自分の意見を書きなさい。①アマミノクロウサギ判決、②人類滅亡肯定論、③救命ボート倫理

by strafrecht_bt | 2016-12-05 16:03 | 環境刑法


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